遠くまで行く

生活のリハビリ

先っちょだけ見える

休職をしている。

初夏に、9年ほど住んでいた、とても好きだった街をはなれて、あたらしい場所へ移った。 引っ越し先の街は、首都高速が家の近くを走り、駅のある四車線の大きな道路を車がびゅんびゅんと移動する。その左右には、有名な会社の立派なビルや、高層マンションが並んでいる。家からすこし歩いた場所にある通りは端正ないちょう並木で、スーパーに並んだ商品たちはどれも少しずつ高くて、どこか他人行儀な顔をしている気がする。

大きな街よりも小さな街が好きで、大きな道よりも小さな道が好きな私は、引っ越してきてから半年以上経った今もこの街にまだ馴染めないでいて、時折、以前住んでいた街を訪れては、新しい人がいるのに昔の恋人を忘れられない人みたいな気持ちになっている。

そんな街にも好きなところはいくつかあって、住み始めてから3か月ほど経ったある日、家の近くの道から、スカイツリーがすこしだけ見えることに気がついた。写真に撮っても見映えがするような景色ではないけれど、そのことに気づいたときは妙にうれしくて、それからは、いいことがあった日も、心がずんと落ちている日も、夜になるとすこし遠くで光っているスカイツリーの先っちょを見て過ごしてきた。

秋にたくさんのことがあって、冬に休職をした。 ほんとうは昨日までだったお休みが、さらに1か月延びることになった。

年明けに、夜まで外に出られず、なにもできない日があって、夜の10時すぎになんとか散歩へ出かけた。コインランドリーまで行って、乾燥機に百円玉を3枚いれて、そのあいだ、とことこ歩く。

歩を進めた先にある公園からは東京の夜の灯りが見えて、そのなかに、ひときわとんがっている建物があった。 最初はこの公園からもスカイツリーが見えるのかと思ったが、なんだか方角が違うような気がして、グーグルマップとにらめっこをしているうちに、あのとんがった建物が東京タワーの先っちょであることがわかった。 なんだかうれしくて、好きな人にそのことを電波にのせて文字で伝えた。

こっちの先っちょも、見えるのはやっぱり少しだけで、夜景スポットでもなんでもない。 そもそも引っ越し先の私の家は小さなアパートの一階にあって、家の窓からはスカイツリーも東京タワーも見えない。 だけれども、家からすこし歩いたところから、スカイツリーと東京タワーの先っちょが見えて、いいことがあった日も、心がずんと落ちている日も、光っている。私が見ていない、せわしなく過ごしている日も、一歩も外に出られず家にいる日も。 ポストカードになるような、一眼レフで撮るためにあるような景色ではないけれど、自分の暮らしらしい景色だ。

今日はスカイツリーの先っちょを見て、それからちっともきれいじゃない川沿いを歩いて、品のいいイルミネーションを見てから、東京タワーの先っちょの見える公園で、この日記を書いている。

その川の水は濁っているけれど、夜になればそのことはわからない。高架になっている道路に等間隔に置かれた街灯の光がゆらゆら揺れる川面に反射して、きらきら瞬いているのが橋から見える。街灯はやさしいオレンジ色だ。

いろんなことがあったり、うまくやれなかったりする。

まだ当分、こんな日々がつづくと思う。

そうしてすこしずつあたらしい街に好きなところが増えていって、この街から離れるときがきたら、この日々のことを思い出して、さみしい気持ちになるのだと思った。いつか、遠くから見える先っちょの光みたいになる。