遠くまで行く

生活のリハビリ

遠くまで行く

気持ちのいい風があちらから吹いてくるような音楽と、どこか気の抜けたラジオパーソナリティの声、知らない街の交通情報。その向こう側にある波の音、潮の匂い。夏の気配。じぶんとは交わらない人の生活。知らない名前のスーパーと、そこでかかってる陽気で変なうた。君の生まれた街のスーパーの名前と、そこでかかっていた陽気で変なうたを教えてよ。

大学生のとき、大学にどこにもじぶんの場所がない気がして、どこか遠くへ行きたくて、だれもいないがらんとした空き教室で、海沿いの街で流れるラジオ番組を聞きながら、よくお弁当を食べていた。

そのことをもうずっと忘れていたけれど、この前たまたま仕事でハワイについての調べものをした際に、ふと思い出したのだ。

1935年から1975年の間、ハワイでは、ハワイ・コールズというラジオ放送が流れていたという。

ワイキキのモアナ・ホテルの中庭から、生放送で、ときには海沿いまでマイクを持っていって、波の音をバックに、ハワイアン・ミュージックを流したその番組は、世界のあちこちでよく聞かれていたらしい。

この前、ねむれない夜にたまに聞いている宇宙から放送してるラジオ番組で、星の交通情報が流れていた。

イヤホンから流れる知らん星の名前。知らん宇宙の住所。ナビ付きのUFOで移動する宇宙人たちは、天の川で魚釣りをするという。

なるべく遠くまで行く。遠くのことを考える。

 

ある人のこと。

2023年9月24日、日曜日。午後1時、待ち合わせ。柴又駅の寅さんの像。そこから江戸川沿いを海まで。いっしょに歩いた道、はんぶんこした焼き芋、寝っ転がった芝生。クルミとナツメ。水たまり、足あと。いろんな話をした。橋をわたる。セブンイレブンでトイレを借りたあと、江戸川沿いまで走ったこと。イオンの建物に沈んでゆくとろとろの夕日をいっしょに見たこと。富士山とスカイツリー。夕焼けと、夜が近づいてくる空、等間隔の街灯、流れる車のライト。さみしいから大きくなっちゃったコーン、カルフォルニア・ロード。行けなかった展望台、見れなかった海。ひとつもわすれたくなくてここに書いてる。わすれたいのに思い出せないことがいちばんさみしいから。

教えてもらったすきな曲を何度も聞いても、出会う前にふたりともすきだった曲を電話越しに歌ってもらっても、はなればなれになる。なんかの映画みたいに「君とすれ違うことは世界とすれ違うことだ」と思っても、かんたんに世界とすれ違ってしまう。人の孤独のすぐちかくまできても、それにふれることはできない。身体にはさわれても、心にはさわれない。だからずっと遠くまで行く。ひとりで行く。行けなかった展望台にひとりで行く。見れなかった海をひとりで見る。

「 ほんとうに出会った者に別れはこない」と谷川俊太郎は詩のなかで書いている。

最近知り合った人が、じぶんのSNSで、こんなことを書いていた。

じぶんにとってはなれることはそこまでかなしいことではないということ。出会った人とわかれても、なにかの形でいっしょになることができなかったとしても、終わり方が必ずしもきれいなものでなかったとしても、出会えたという事実によろこびを覚えることができているような気がするということ。

――今さみしくても大丈夫なのだ。あなたのなかに他者がいる。すこし開くだけでそこには他者ががいるので。

わたしはその人と出会えたのだろうか。その人はわたしと出会ってくれたのだろうか。

 

職場の窓際に、経理の人が趣味で育てているたくさんの観葉植物が並んでいる。くるくるの葉っぱのやつ。うすい黄緑色のちいさな葉っぱがたくさんついているやつ。根っこの立派なやつ。たまに見てる。こっそり葉っぱをさわったり、匂いをかいだりしてる。名前も知らない植物たち。

この前、経理の人に、窓際の植物たちの名前を教えてもらった。近づけると思ったのに、見たり、さわったり、匂いをかいでいたときよりも遠くなった気がした。植物たちは、じぶんの名前を知らない。わたしが教えてもらったのは、彼らがじぶんで名乗っている名前じゃない。名前を聞いた途端、だれかのつくった輪郭ででしか、植物たちに近づけなくなった気がした。遠くなった。

 

ぜんぜん大丈夫なんかじゃないって言った。

大丈夫になんてなりたくない。もっとぐちゃぐちゃに傷つけてほしい。